メディアの難しい立ち位置

「ミニキリン」に関する日本の記事が事実と異なったものになってしまったという話。元ソースの英語版から劣化コピーが連鎖していて、専門家の意見虚しく劣化コピーのまま記事が公開されてしまった不体裁が主題。

 

 

メディアの話は燃えやすいので普段ネット上では言及しないようにしてるんですが、今回はなんかうまく伝えられそうな手応えがあったので書き付けてみます。


今回話題になったような怪しい記事は、残念ながら程度の軽重はあっても各所で発生しているはずです。SNSが広まって顕在化しやすくなったことは自明です。

よく情報操作するマスゴミだなんて言われますが、実際意図的な情報操作と断言できない点が結構闇が深くてですね・・・。

 

現場の傍観者としては、日々原稿を仕上げなければならない時間的制約に、記者の知識不足、取材不足、実力不足が相まって起こってる場面がほとんどと思っています。

残念な記事の要因

知識不足・取材不足

まず知識不足・取材不足は教養の不足と同義ではありません。取材する側がある程度の教養を有することは当たり前です。新たな取材対象への好奇心や予習の不足、語義への感度や粒度の違いによって起こっています。特に後者は大きいと思っていて、専門家が明確に言葉を使い分けていても門外漢にはニュアンスが伝わらないことは多々あります。ツイートツリーで言えば体高、体長、背丈。最近のバズワードで言えばVR、MR、AR。一般人にとってはどれも似た者同士ですが、定義が明確に異なります。理系人間にとっては明快な「有効数字」も、文系人間はその設定方法だけでなく意義や重要性もまったく知りません。平気で1桁削りますよ。

つまり、取材する側の記者だけでなく、取材される側も普段どおり言葉を操ると落とし穴にハマります。

時間的制約

時間的制約も根深い問題です。たとえばツイートツリーにある「相次ぐ」という表現はちまたでよく使われますが、n=2のときでも結構使ってて大げさに感じるときがありませんか。しかし「相次ぐ」という少ない文字数で適度に耳目を集める言葉を反射的にあてはめているにすぎないと捉えれば、記者が短時間でなんとかする処世術とも言えるわけです。

私としてはドキュメンタリーのような時間をかけた取材では、取材対象者との意図のズレ、事実とのズレに起因する批判が少ないように見えます。これが短時間で原稿を仕上げることの弊害を補強していますが、ニュース性は時間ごとに逓減する特性(ネタによっては信仰といってもいいかもしれない)もあって*1、この先入観を解消して手の込んだ内容ばかりにシフトするのは難しい面もあります。

 

先入観

さて、ここで出てきた「先入観」というのが最後のキーワードです。自分の意図と異なる内容が世に出てしまった人から、「初めからストーリーが出来上がっていて、それに沿う部分だけ発言が取り上げられた」ということもよく主張されます。

記者も人間ですから先入観はどうしてもあるはずです。それを取り除ききれないまま原稿が上がってしまった場合もあるでしょう。要因にはまさに先述の、真実と向き合うための実力不足、時間不足がまず挙げられます。

最近の緊急事態宣言の発令で、話題に上がるのが通勤客の数。「結局変わってないんでしょ?」その先入観、きっと読者のあなたにもあるはずです。ここに「レンズの圧縮効果」で人の多さが強調された*2写真が届いたとしましょう。先入観は崩されるどころかむしろ「人は多い」と補強されますよね。

「人が多い」という先入観は、記者として重要な仕事:予備調査によっても形作られます。携帯電話会社の人出の数字のことです。客観的な事実に基づいている以上、実際の映像を見てもなかなか崩せない先入観ですよ。

 

情報は多角的に見ること

先ほどの先入観の話題を引き継いでみましょう。

記事の扱いを決めるのは会社にいるデスクです。現場の人間ではありませんから、第一の読者としてその映像や写真に影響されてしまいます。数字は大きく減っていても写真から受ける印象が「多い」ならまだ減りきっていないと思うはずです*3。逆に、予め「人の数が増えている」情報を入手していて、それを表現するための写真や映像を必要としている場合も当然あるはずです。実際の撮影場所の人出が多くなくて、傍目には一見偏向報道に見えてもです。

 

メディアも受け手も、客観的数字や他ソースを参考にして情報の選別をしなければならない重要性は上述の一連の現象があるからです。自分が見たもの・感じたものがすべてではないからです。

 

ニュースバリューと伝え方

そもそも、メディアに限らずその時の時流に合わせて「常識と異なっている」ことにニュースバリューがあるとしてセンセーショナルに騒がれがちです。

勘の良いみなさまからすると安易に思われるかもしれませんが、一般的な受け手は結構「肌感覚」を大事に動いてしまっていて、メディアもある程度それを迎合した(よく言えばニーズをとらえた)状態を意識して作っています*4。実際に一般の「肌感覚」から外れると、どれだけ客観的な良記事でも読まれ・見られなくなりますから、記事にどの程度「感情」を込めるかというさじ加減が難しいのです*5

例えばコロナワクチンの副作用については、現時点で他のワクチンと同程度に低いと言われていますが、この見出しで閲覧数は伸びるでしょうか。情報をただ発信しても、一番伝えたいはずのワクチン接種を心配している人には意外と伝わりません。まず「副作用が出た」と騒がないと、思ったよりも記事が広まらないのです。当然、「副作用が出た」と安易に騒げば、ワクチンはヤバいものという同意も広がってしまいますけどね。

 

結び

メディアは力がある巨大産業だから、批判されがちで、それ自体簡単にできます。心傷まないし。そうした稚拙なマスゴミ批判を、切って捨てることはとても簡単なことです。しかしメディアにとっては今まだ多くの人に信頼を受けているからこそ、まっとうな批判をまっとうに受け入れて、外見も中身も向上を図らねばならない重要性は現場に浸透しつつあります。今ならノイジーマイノリティと言ってしまえるマスゴミ批判(とそれを支持する人)でも、メディア批判自体は簡単であるからしてこのままいずれ大衆を飲み込んでいきかねません。そうなればメディアにとってはビジネス面での敗北となります。でも実際はそれにとどまらず、今以上に嘘と欺瞞が渦巻くライアー社会が訪れるという意味で、世界の敗北も招くんじゃないかと思ってみたりします。あくまで妄想ですよ。

 

想定よりメディア擁護の方向性になってしまった。こんなはずでは。

*1:当然地震など1分1秒を争うニュースもありますが、ここではいわゆる「暇ネタ」などのことを考えるとします

*2:圧縮効果は、人の多さも少なさもどちらも強化できる表現上の武器です。

*3:余談ですが、人間は数の大小を対数関数的に認識すると言われています。つまり倍々ゲームにならないと大小をはっきりと識別できないということです。街の人出が3割減っても、街で感じる人の数はまだ十分多いと感じるレベルなのです。

*4:ここにはメディアのおごりーー一般大衆はこれを求めているだろうと勝手に思っているーーも一定程度認められます。

*5:個人的にはこんな「肌感覚」、例えばよくある「街の人の雑感」ばかり強調されてもと思いますがね。