コロナの騒ぎをもやもやしながら見つめている

火のない所に煙は立たぬとは言いますが、これから火の気たっぷりの話をします。

私が個人的にもやもや思っていることを言います。当然今見えている結果にはやむを得ない事情があることと重々承知しております。しかし今私にとってえも言われぬことも、ずばり明快な指摘によってははーんと納得したいのです。他にも納得する方が増えれば、うまく行かない諸々も、ちょっとはましに動くようにならないでしょうか。

 

行政のもろさ

移動制限は科学的なのか?

県境をまたいだ移動をしないでください── とよく言われていた。実際、GoToトラベルでは都道府県(特定の市域)単位で出発地・目的地の管理が行われている。

しかしよく考えてみれば。

科学者が述べている回避策は、3密を避けなさい、手洗いうがいをしなさい、といった話で、必ずしも移動自体を悪とはしない。もちろん、移動によって密を招くといった副次的悪影響は否めないことは付しておくが。

3密を避けるならば、そもそも混んでいるところ、繁華街に行かなければ良い。マイカーで休憩もせずだだっ広い高原しか行かないなら、別に遠いところでも構わないのではないか?

移動がだめと言うなら、移動範囲を数字で、半径何kmと制限すれば良いのではないか?

ところが現実には日常的に県境をまたいでいる地域はざらにあるから、厳密にいいつけを守ると、尼崎市民はお隣の大阪に行ってはだめだけど2時間かかる姫路はOKとかいうよくわからないことになる。

都道府県単位で制限するというのは、科学から導いた回避策の原則から若干ずれて、あくまで行政の都合に過ぎないというのが見え隠れする点でもやもやする。だから市民の自然な行動に微妙に則さなくて、そもそもの対策もうまく行かない上に行政の指導力不足も露呈してしまう。もやもや。

 

動きが遅いわりに結局世論に折れる

経済との両立をうたいながら結局世論に折れて緊急事態宣言やらGoToの制限やらに走るありさまである。

世論の反発を受けて行動するなら、それを前々から提言していた医師会・分科会の無駄遣いである。経済と両立するなら医療と調整して国がちゃんとリーダーシップを取るべきである。命を取るなら世論を待つ時点で遅きに失している。

命を守るにしても経済を守るにしても、そのために走り出した施策を止めるのは難しいとは思うが、状況に応じて柔軟に対応する前提ではなかったのか?遅い行政だけでなくただ文句を言う施策の受益者にももやもや。世論を聞くのはもはや政局で、この期に及んでメンツかよともやもや。まあ世論が支持しない人の話なんて誰も聞かないだろうけどそれにしたってねぇ。

 

情報が遅い

いまこれをしなければなりません、だからこれをやります。

これはよく見聞きした一方比較して、「そしていまこれだけできました」という進捗はあまり報道されない。これはマスコミの罪も大きかろうが、そもそも発信されていないのではないかという疑い。で、実際に必要なものは必要なところに行ってるのかともやもや。行ってるならちゃんと言ってよともやもや。

 

医療 - 1年で得た知見はどう生かされたのか?

未知の病、しかも致死率はインフルエンザよりも高いらしい。でもやってくる患者は救わなければならない。1年も続けば医療の現場は使命感だけで動いているはずで、本心から頭の上がらない思いである。ここに来て患者が増えれば、設備的にも精神的にも急激に負荷が高まっていることが容易に想像されるし、事実そう発信されている。

しかし、医療について報道される内容は(報道以外の場所で発信されているのかも知れないが)、コロナだけにまつわる数字と「逼迫」という感情に訴える主張のみであって、私個人のもう少し踏み込んで考えたいニーズは満たされずもやもやしている。

 

数字については、例えば収入や後回しになった患者の数など例年と比較したものが見たい。定性的には報じられるが実際の数はなかなか見えないと感じる。他の病気の診断数は?慢性疾患由来の患者が減っていれば医療リソースの厳しさを物語りそう。

少なくとも私が把握していることは、インフルエンザの罹患数は例年に比べて大幅に低減する一方で、コロナはそれなりの人数となっているらしいという点。これからわかることは、インフルエンザもちゃんと手洗いうがいマスクの予防策を徹底すれば流行らないことと、これだけやっても感染が広がるコロナの怖さである。

亡くなった方の数も気になるところ。直接的原因はコロナという方でも、実際にはコロナ以外で今年中に亡くなってしまう可能性もあったはずで、年間の死亡者数は例年に比べてそんなに突出しないのではという予想。(マクロの話をしているので、個別の事例を挙げて冷酷だなんて思わないでくださいね) ──もし死亡者が有意に増えていないならばコロナは数ある病の一つ、と言われるかも知れない。

要は比較によって見えてくるものがあって、数字はそのツールになるよねってこと。数字によってコロナの特徴がもっと見えてくれば「やっぱり驚異」あるいは「いうほどではない」などと認識が深まりそうなんだけどなあ。

 

また、「逼迫」と言うは易いが、どうして逼迫しているのか。患者の急増については当たり前なのでここでは置いておこう。

すでにコロナが発生して1年が経過した。ある程度の知見が蓄積されているはずなので、手を抜けるところは手を抜けないのかと気になっている。議論の結果手は抜けないという結論ならそれでいいのだが、「念には念を入れて」などの曖昧な理由で手厚く患者を見舞っているならばもうそんなことを言ってキャパを制限している場合ではないと言わざるを得ないのである。

ここでいうキャパとは、1人の患者にかける人的資源だけでなく、トリアージ的な意味や、統計や感染経路特定などにかかる事務的な手間(とその効率)も含んで考えている。今、キャパオーバーを防ごうと実施した対策が表に出てないからもやもやしている。

現状、手間の低減と患者増を加減して後者が勝っているからこのありさまなんだろうなとはわかるけど、その割合を論じるのは意味あるような気はする。

逼迫の改善のためには医療従事者を増やすのがわかりやすい手段だけど、なかなかうまくいってないみたいということはどこかで聞いた。最後の後押しは御上の仕事──この騒ぎに飛び込む心理的障壁を減らすことはできないのかな。

 

民衆の意

自分も含めた民衆の愚かさとその怖さを感じてしまった1年である。

自粛警察、感情論(暴論)、エセ科学主張・・・、その議論で精神を無駄遣いしていて、だまって科学者の声に耳を傾けたほうがよっぽどいいのにとずっと思っていた。

 

でも一番怖いなと思ったのは、怖がっていることそのものについてである。

あるものが怖いということは、その「あるもの」を知らないがゆえである。

だから科学が知りたい欲望に応えて解決するはずなのに、耳目を集めるのは何人感染った、GoToの割引がとりやめだといった話で、そんなものばくちやあぶく銭に一喜一憂しているのと変わらない。

今目の前で人が死んでいくのは怖い。だから短絡的に命を守る方向に動く。だけどよく考えれば経済が死ねば首をつる人も出るし、収入が減った夫婦の間に将来生まれるはずだった子どもがいなくなるかもしれない。経済が死んでも人が死ぬんだよ。だから疫学的・経済的・あるいはその他の科学的見地に基づいて、適切に防御しつつ適切な時期に柔軟に制限・緩和などするはずだったのに。

ふざけた政局で中央は好機を逸し、一方で地域ではどっかの聞きかじった話でうがい薬が忽然と姿を消す。とにかく始めてあとから即パッチ前提のGoTo事業も、ひとつバグが出ただけでそれみたことかと叩いて萎えさせる。

その先を知らないし考えないから、今目先のことだけ怖がって嘆いて何もできず騒いでいる。それが一番恐ろしくてたまらないのである。

 

最後に

基本的にもやもやしている原因は「表に出てこない」からです。もし報道関係者が見ていたならば、そのもやもやが満たされるよう粉骨砕身してください。あとどっかの大衆雑誌、こういう時期になにかと行政叩いても不信だけ生んで事態はよくならないとおもうんですけど。きみはご飯が食べられるかもしれませんがね。

ともかく都道府県や国の発表だけが大ニュースじゃないですよ。百○子のライブ配信はもうたくさんです。