高校のとき、担任が急死した話

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教員の長時間労働を是正しようという声は、働き方改革が広まるにつれ大きくなってきた。実際に改善されることは急務だと思うけれども、ふと10年くらい前・高校生のとき、まさにそんな話があったなと思って記すことにした。

一応ぼかしてはいるが、当事者であれば記憶のどこかに思い当たる節があることと思う。

 

 


 

 

高校2年生の5月26日、夜9時21分。同級生からの電話が鳴った。

その日は連絡内容に心当たりがあったので、訝ることなく普通に電話をとった。

 

自分 「うい」

同級生 「今大丈夫?」

自分 「うい」

同級生「今からいうことに驚くなや」

 

同級生「先生亡くなったらしいぞ・・・ 今日ハンド部聞かされたって」

 

 

 

 

その先生は、高校1年のときの担任だった。

地元出身・自分の母校に赴任していた小太りな先生で、常に汗だく全力疾走で生きているような人だった。

自分のクラスの生徒が至らないことをすれば、そういう後輩を社会に出してはならぬと不器用にも熱く語り(そしてなぜか浦沢直樹のプロフェッショナルをみんなで見た)、かと思えば文化祭で生徒に混じってドラムを叩きまくったりしていた。その文化祭の後、打ち上げは禁止だと言った直後に、後ろ向いてみんなで偶然ご飯食べに行くのはいいよな~~と大きな声でつぶやいて、なんか「カワイイ」感じで人気の先生だった。

学級日誌で暴走して戯言を書き連ねた僕に対し、あんたの言うことはよーーくわかったと言って度量の深さを顕し、スティーブ・ジョブズのstay hungry, stay foolishなるスピーチを元ネタにした英語教材で、文章を悩んで「ハングリー精神を持って、バカになれ」なんて訳した僕に、おっわかってるねぇ~~なんて言ってその気にさせてくれた。

 

2年生に進級して、クラス担任ではなくなったが引き続き英語の教科担任になった。

 

5月に入ってすぐ、非常に疲れた様子で授業をこなす日があった。その日は授業の用具をまるごと教卓に忘れていったので、クラスメイトと二人で職員室に届けに行った。

すると先生は、変わらず非常に疲れた様子で、「最近こう忘れることが多くてなぁ」と目線を虚空にやりながらつぶやいた。そのクラスメイトと二人、やっぱ疲れてるみたいやなぁ大丈夫かねとか話しながら教室に戻ったが、それ以上気にすることはなかった。

次の週、突然英語の担当が変更になった。特に理由の説明はなかった。まあ最近大変そうやったしな、と鈍感にもそれくらいにしか思わなかった。

 

そして5月26日の夜9時21分。先の通り先生亡くなったらしいぞ、という電話を受けた。

 

翌日学校に行くと、すでにクラス中に訃報の噂が駆け巡った後で、教室じゅうの空気が重く湿っていた。誰も声を発さず、いまだに信じられずという具合であった。

1限目は、変則的に遅い時間に始まった。

1限目の物理は、担当の先生が黒いネクタイをして現れた。クラス全員が嫌でも察した。

 

 

 

当時生徒会長だったぼくは、生徒代表として翌日の葬儀に参加することになった。

教え子と思われる大人たちがたくさんかけつけ、誰もが棺の横で涙をぼろぼろ零しながら最後の別れを惜しんでいた。

ぼくは棺に花を手向けようとして、その様子を一歩引いて見ていた。その瞬間になんだか一番かなしい気持ちになった。

死後1週間経ってからの葬儀だったせいか、全身完全に白い布で覆われてしまって顔も見えないし、ただ本当に最後という気だけがした。だけど当時は、こういう場で一歩引いた状態でしか見ることのできない自分がちょっと嫌だと感じた。

出棺の折、生前先生が好きだったという曲が流された。知らないロックだった。軽音かなにかでやっていて、教師になってからも文化祭で演奏したことがあったのかもしれない。

そんな葬儀の一瞬一瞬が強烈に記憶に残っている。

 

 

 

散文になってしまったが、ともかく、ひとりきっと過労死してしまった先生のことを覚えておきたくて書いてみた。

取り組める作業量には個人差がある。そして取り組み方も個人差がある。周りがどれだけ気配りができたとしても、法で十把一絡げに何らかの制限をかけたとしても、網目から漏れてしまう人がいそうなのがつらい。